コミュニケーションの枠について

最近、コミュニケーションの枠について考えている。

私は大学2,3年生頃、境界性パーソナリティ障害っぽいところがあった。
近づきすぎる依存と離れすぎる疎外感を行ったり来たり、全か無かの価値判断。
毎日がジェットコースターのようで安定しなかった。
そんな時、精神科医は努めて接し方の「枠」=「ルールづくり」をしているようだった。
今ではこの枠づくり、枠を超えないことの大切さがよくわかる。

一方でその枠をちょっと超えて、相手の心を震わせることが、コミュニケーションの醍醐味ではないかと相方に指摘された。
確かに、例えば緊張や不安で相手に対して心に壁を作ってる時、それを溶かすような一言にグッと来たり、恋に落ちたり、ということはある気がする。

そこで、枠の定義は1つではないんじゃないか?と思い当たった。
無理やり言葉にしてみると、枠には、心理的な枠(心の壁)と社会的な枠(ルール)があるように思う。
心の壁を作ったり溶かしたり揺らしたりするコミュニケーションは楽しい。
ルールは壊すとストレスを産んだり、それまで秩序立っていたものが急に不安定になる危険がある気がする。

最近私は「社会的な枠」の方の意味で、仕事をする上で枠というか、境界線というのがよく見える(仕事上の限界、とも言える)けれど、その中でこそできることがあるのではないか、と考えていたが、それは先ほど述べたような、心理的な枠と社会的な枠に場合分けしてみたところ、不十分であることに気づいた。

つまり、私が本当に言いたかったのは、「社会的な枠=ルール」はめったに超えることができないので自分の限界を感じることはあるけれど、その中を精一杯生きると結果的に枠外の事にまで力を及ぼせることがある、のような気がする。
さらに言えば、社会的な枠すら、壊した方が良い場合も(多分に)あるだろうと思う。
うまい事例に出くわしていないか、察知できていないかで言葉にはできないけれど。


自分は物事を秩序立てて考えることがどうも弱い。
その場の感覚、フィーリングで刹那的に生きてるように思う。
毎日の思考の蓄積をただのゴミにするには惜しい。もっと考えを深化させる癖を付けたいものです。

ラスコー展とうさまるカフェ

今日は友達と一緒に朝から国立博物館で開催されているラスコー展に行ってきました。
最初友達から誘われた時は、「ラスコーさんってどこのどなただっけ?」と思いましたが、ああ、社会でそういえば習った、壁画のあるラスコー洞窟のラスコーでした。

朝いちの9時から出かけたのですが日曜ということもあってぎゅうぎゅう詰めの大賑わいでした。

男性は狩猟、女性は衣服づくりやアクセサリーづくりをし、ファッションに気をつかう。
そして、絵を描き、音楽を奏でるクロマニョン人
なんとなく今と共通する男女の特性や芸術を求める心があって、
人間が生きる上での心地よいあり方みたいなものがあるのかな、と思いました。

遠い人類の祖先や子孫に思いをはせる経験はなかなか楽しかったです。


続いて、友達の強い要望のもと、うさまるカフェに行ってきました。

こちらも大盛況。

なんかあれが可愛くてハマる、という感覚がいまいちつかみきれなかったのですが(^^;)自分の中の新しいジャンルを開拓するきっかけになりました。

多分私がジブリ好きだったりオカザえもんを可愛いと思う感覚に近いんだと思う…。

今朝の朝日新聞に働き方に関する記事。

(男も育てる)育休・時短でも昇進の道 働き方を効率重視に・会社も両立支援
http://www.asahi.com/articles/DA3S12760620.html

>>初めての育休取得の後は、みんなと一緒にキャリアアップできないかもしれないという不安と孤独感が強く、昇進は半ば諦めていた。でも、いまは違う。「みんなと一緒じゃなくていいと思えるかどうか。女性がずっと抱えてきた葛藤を、男性も考えざるをえない時代になったのではないでしょうか」<<


最近の憂鬱感に対して、今朝から頭を巡っているのは
出来ない理由を嘆くんじゃなくて、
自分にできることは何か、
自分にできるやり方は何か、
人に助けてもらうにはどうすれば良いかを考えたほうが幸せだよなあ、ということ。
「普通」の呪縛に縛られず、自分の幸せを見つけたい。
仕事も、家庭も、含めて。

普通の幸せってなんだよって思う

普通の結婚、
普通の出産、
普通の子育て、
普通の親戚づきあい、
普通の毎日の料理、生活、
そして、普通のお葬式…


どれも私にとっては普通じゃない。
望んでもない。いや、分からない。
世界の「普通」という圧力に、1人で潰れそうになっている。
自滅だ。


一方では未だスポーツの最前線で戦い、華々しい成果を収めている友人がいて、
一方では始めた事業が軌道に乗り始めている友人がいて、
一方では家庭を築き始めている友人がいて、
どれも輝いているよ。
カッコいいよ。


私はどこにも属さず、
自分の担当する仕事に対する苦手意識が消えないまま、
4年間働いた会社を去ろうとしている。
結婚する、という建前で。
すごく嫌だ。
望んでないよ。こんな形。
何者にもならずに終わってしまった。
私の社会人としての第一歩。
これからどうすればいいのか全く分からない。

体操がもっとできる人間だったらよかったのに。
もっとテンションが高くてなんでも身体表現に変えられる人間だったらよかったのに。

その分野は好き、ではあったけど、得意にはなれなかった。
そしてどんどん閉じていく。
苦手が怖くて閉じていく。

今は踏ん張って頑張る時期?
いや、何をさ?

カッコいい友人たちに共通するのは、
それを全力で楽しんでいること。

私も心が赴く方へ、
楽しいと思えることを全力でやったらいい。

そんな表面的なことは言えるけど、
本当にどうしたら良いか分からないんだ。

教員免許をとり直そう、という気持ちも揺らいでいてね。
教師になれる感じがしなくてね。
結局苦手と向き合うことになるだろうから。

さあ、時間は過ぎる。
困ったな。

最近。

映画「海賊と呼ばれた男」を観た。
堀江貴文さんの「我が闘争」をチラッと立ち読んだ。

共通すること。
未来を見据える先見性。
ヴィジョンを語る熱い心。
何が何でもやり抜く、という強い意志。
そのためにはどんな苦労も厭わない、という爆発的な行動力。



翻って、最近の自分はどうも
保守的になっている気がする。
結婚の不安とか、
次の仕事が見つかるかの不安とか、
お金の心配とか、そんなのばかりな気がする。
学生時代から、とにかく行動してきたじゃないか。
打開したい。打開したい。打開したい。

「この世界の片隅に」を観てきた。

この世界の片隅に」を観てきた。
良かった。

主人公がが明るく何気無く言った「何でも使うて暮らし続けるのがうちらの戦いじゃ」という言葉…。
物質的豊かさに恵まれた私は、毎日の生活に転がっている小さな幸せを見過ごしていないだろうか、とハッとした。

日常のちょっとした喜びを大切にかみしめること。
哀しい気持ちを慈しむこと。
空気を吸って、吐いて、身近な世界に目を向ける。
遠い世界に思いをはせる。

そういう1つ1つの丁寧な生き方が、病気なんか関係なく、豊かな人生を送る秘訣かもな。

生きるモチベーション?幸せ?

今をときめく大学生の後輩が
①あなたの生きるモチベーションは何か
②あなたにとっての幸せとは
の2つを知りたい、とFacebookに投稿していた。

さて自分を振り返るとどうか。何とコメントできるだろうか。

私も大学生の頃、病気だし中身も空っぽだしで大いに悩んだ。
自分に向き合う時間が長い学生時代は、
繊細な心、繊細な生への意識がむき出しになる時期だと思う。
彼女はまさに今、そこを歩いているんだな。
心の純度の高さが眩しい。

私は、といえば、
社会に出て4年目だが、今もまだグラグラだ。

でも働くようになって、社会との接点ができたことによって学生時代よりは多少グラグラは緩和されたように思う。
ああ、外の世界に出るって面白いな。
自分にもまだ可能性が開かれてるな、と。

正直まだ病気で思うようにいかないことは多い。
そのせいで責任ある仕事は減るし、もどかしい気持ちでいっぱいだけど、
自分にもまだまだ可能性があるはずだと思う。
山田ズーニーさんが何かの本で言っていた「いつか、もっと大きくなって」っていう気持ちがある。
病気だから余計に伸びしろがあるよ絶対。と思う。

私は子どものスクールをメインで担当しているのだけど、
心に火がついたときの彼らの爆発はすごい。
まさに生きている…!!と感じる。
だから、私自身の可能性をぶつけて、子どもたちのパワーを引き出したい。
そうやって年齢も性別も関係なく、お互いを磨き上げるのが人生の面白さじゃないかなー。
私のモチベーションかなあと思う。


とか言って実際は
これでいいのか?
この程度か?
こんな私で生きてる価値あるのか?
という疑問の連続だけどね。


明日も頑張ろう。